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2011.05.11 本郷 #7
春日駅

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「一応、写真に撮ってあるから・・・」と軽い気持ちで始めた説明板の全文掲載。毎回、写真を見ながら文字に起こすことに、いい加減ウンザリしてきた今日この頃。しかしここは名所・旧跡ばかりで、街中至る所に文京区教育委員会の説明板が設置されている坂と路地の本郷菊坂界隈。なので今回は説明板のない、ただの狭い石階段からスタートします。



と思いきや、この場所も林芙美子の原作を映画化した『晩菊』(1954年/監督・成瀬巳喜男/出演・杉村春子、上原謙)という菊坂を舞台とした作品の中に、この狭い石階段も登場していることから「晩菊の小路」と呼ばれているそうです。


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前回途中で菊坂から、もう一段低い道に入りましたが、この道は「菊坂下道」と呼ばれています。宮沢賢治旧居跡の石階段そして晩菊の小路と、ところどころで菊坂(「菊坂上道」とも呼ばれる)と階段でつながっています。



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さらに菊坂下道沿いをぶらり。
狭い路地があったので進んでいくと、その奥に「樋口一葉菊坂旧居跡」がありました。勿論、現存はしていませんが、それでも一葉がこの場所で生活していたと感じさせるような、趣きのある路地です。




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そんな趣きのある路地にあった階段を上がってもよいのか判らぬまま、ビクビクしながらA-changに撮影のため上がってもらいました。しかし階段を上がりこっそり撮影をしようとしたその時、ご近所の住民の方が外に出てきたので慌てる一同。以下その様子をご覧ください。




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『写真でよくわかる慌てるA-chnag』 より、その壱。



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『写真でよくわかる慌てるA-chnag』 より、その弐。



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『写真でよくわかる慌てるA-chnag』 より、その参。



・・・以上、「樋口一葉菊坂旧居跡」でした。




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樋口一葉と本郷界隈
樋口一葉は本郷界隈を3回移り住んでいます。幼少期は東京大学赤門近くに住んでいて、その頃一家は裕福でしたが、父・則義が事業の失敗による心労から他界。父の死後母妹と共に、菊坂下道に面したこの場所へ移ってきた頃の生活は貧しかったそうです。ここでの2年11ヶ月(18~21歳)の一葉は、母と妹の3人家族の戸主として、他人の洗濯や針仕事で生計を立てました。今回訪れてはいませんが、一葉が生活が苦しくなるたびに通ったという伊勢屋質店も近くにはあります(現在は廃業してますが、土蔵は当時のままに保存されています)。そしてA-changが通り過ぎている、一葉も水を汲んで使ったと思われる掘り抜き井戸も、今もなお残っています。

その後本郷の住居を離れ、現在の台東区三ノ輪に10か月住んだ後、明治27年(1894)に白山通り沿いの文京区西片に移ってきます。この地で『にごりえ』、『大つごもり』『たけくらべ』、『ゆく雲』、『十三夜』など代表作が数々生まれましたが、結核のため24歳の短い生涯を終えてます。この場所には平塚らいてうの筆による記念碑がひっそりと建っています。

【樋口一葉菊坂旧居跡】
住 所 : 東京都文京区 本郷本郷4-32・31
最寄駅 : 都営地下鉄三田線・大江戸線「春日」駅より徒歩5分

【樋口一葉終焉の地】
住 所 : 東京都文京区 西片1-17-8
最寄駅 : 都営地下鉄三田線・大江戸線「春日」駅より徒歩5分


あまりに中身のない内容のため、急遽「樋口一葉と本郷界隈」について、ざっとまとめてみました。なお今回記事にするにあたり、いろいろこの界隈を巡ったブログを拝見しましたが、あの階段を上がって撮った写真も見られ、どうやらビクビクしなくても、見学は近隣の皆さんのご迷惑にならないようなら大丈夫とのことでした。(撮影は計画的に)


さて菊坂下道を後にし、続いて向かうのは本郷台地へ。



本郷三丁目駅

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出ました。ここで説明板です。 例によって、何が書かれているのか気になる方も、読まれる方もいないとは思いますが記載しておきます。(要は坂にはいろんな由来がある)


炭団坂(たどんざか)
本郷台地から菊坂の谷へ下る急な坂である。名前の由来は「ここは炭団などを商売にする者が多かった」とか「切り立った急な坂で転び落ちた物がいた」ということからつけられたといわれている。 台地の北側の斜面を下る坂のためにじめじめしていた。今のように階段や手すりがないころは、特に雨上がりには炭団のように転び落ち泥だらけになってしまったことであろう。
この坂を上りつめた右側の崖の上に、坪内逍遥が明治17年(1884)から20年(1887)まで住み、『小説神髄』や『当世書生気質』を発表した。

(文京区教育委員会)

住 所 : 東京都文京区 本郷4-32~35
最寄駅 : 都営地下鉄大江戸線・東京メトロ丸ノ内線「本郷三丁目駅」徒歩5分

※ちなみに炭団とは炭にふのりなどを混ぜ、球状に固めた燃料のことです。


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急な階段坂を上り、見晴らしのいい台地の手すりに腰掛ほっと一息。


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油断してました。またもや説明板です。 くどいようですが、何が書かれているのか気になる方も、読まれる方もいないとは思いますが記載しておきます。(要は崖の上の逍遥)


坪内逍遥旧居・常盤会跡
坪内逍遥(1859~1935)は、本名雄蔵、号は逍遥、または春逎舎おぼろで、小説家、評論家、教育家である。明治17年(1884)この地(旧真砂町18番地)に住み、『小説神髄』(明治18~19年)を発表して勧善懲悪主義を排し写実主義を提唱、文学は芸術であると主張した。その理論書『当世書生気質』は、それを具体化したものである。門下生・嵯峨の舎御室は「逍遥宅(春逎舎)は東京第一の急な炭団坂の角屋敷、崖渕上にあったのだ」と回想している。
逍遥が旧真砂町25番地に移転後、明治20年には旧伊予藩主久松氏の育英事業として、「常盤会」という寄宿舎になった。俳人正岡子規は、明治21年から3年余りここに入り、河東碧梧桐(俳人)も寄宿した。また舎監には内藤鳴雪(俳人)がいた。

ガラス戸の外面に夜の森見えて清けき月に 鳴くほととぎす   正岡子規
(常盤会寄宿舎から菊坂をのぞむ)

(文京区教育委員会)

住 所 : 東京都文京区 本郷4-10-13
最寄駅 : 都営地下鉄大江戸線・東京メトロ丸ノ内線「本郷三丁目駅」徒歩5分


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本郷菊坂の街を背景に今回の旧居跡パラダイスは終了。これで終わりかと思いきや、まだ続く旧居跡パラダイス。次回は「じっちゃんの名にかけて!」の巻。


今週のBGM
堀下さゆり 『 カゼノトオリミチ


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